幽霊に似ている

朝吹真理子

まだひらがなも読めなかったころだと思う。車内販売のあたたかいお茶は、透明でふにゃふにゃした樹脂製の茶瓶で売られていた。なかには茶葉のパックが一包入っていて、大きなやかんからお湯を注いでもらう。茶瓶には、簡易湯呑みもついていて、弁当を食べていると、父が、気をつけて、と言いながらお茶をそそいでくれる。電車はよく揺れ、湯気と雪山にむかう景色で、あたりぜんたいが白い。

座席の下からはひっきりなしに温風が吐き出されていて、お茶を飲むと、体が熱くなって、つま足がかゆくなる。しばらくすると、弁当売りのおじさんがやかんを持ってまわってくる。茶瓶を渡すと、たっぷりの差し湯をしてくれる。渋いお茶が好きだったから、セーターの裾で、茶瓶を持って茶葉をよく揉む。車内は、弁当や樟脳、冷凍みかん、キャラメル、いろんなにおいがこもっていて、隣で母がくちをうっすらあけて眠っている。じぶんの汗で額がしめっているなか、ひんやりした窓にほっぺをあてて、休耕田や、電信柱、遠くの山の稜線をみていた。電車が軋んだときの金属の音に、湯気が、すーっとまぎれて消える。湯気の白い筋は、気がつくと、消えている。蒸気そのものは、空気中にいつもたくさん漂っているはずなのに、みえない。そのちいさな水の粒のことを、ふだんは忘れている。アンビエント、ときくと、私は、まず湯気を思い出す。

雨降りの日に、ひとりで食べる小さな中華屋の、カウンターにいくつものコップの痕がついているのをみると、音楽が鳴っているようにそれがみえる。いっぱい蛍光灯がついているのにどこか暗い店内で、カルキのにおいのするお冷やが置かれて、銀色の調理台の奥の鍋が沸き続けている。扇風機の羽根が光るなか、奥で誰かが何か喋っているけれど、よくきこえない。スニーカーはびしょびしょに濡れていて、お腹が空いたのをこらえながら待っていると、チャーハンと、春雨がちょっとだけ入ったスープが、粗雑に置かれる。割り箸は、割るときにすこしさびしいにおいがして、それが好きだなと思う。白いレンゲにたくさん黒い傷がついていて、湯気で顔をしめらせながら、食べる。

俵屋宗達が描いた水墨画「蓮池水禽図」をみているときにも、何かが鳴っていた。小さな細長い掛け軸のなかに、泥池から蓮の花が咲いて散る数日の時間のすべてが、描かれている。一生、この絵をみているだけで人生が終わってもいい、とはじめてみたときに呆然としながら思った。薄墨に、四日間の大気ぜんたいが漂っている。これからさきにこの絵をみるすべての時間も、あらかじめ水墨の一滴にふくまれているような気もしていた。この先二度とみられなくても、ずっとみているのと同じだとも思う。

宗達の水墨画から音が立ち上がってくるように、大分県の国東半島でみたブルーシートにも、アンビエント、がある。廃村に近い、誰も通らない坂道の途中でに、一枚のブルーシートがあった。大雨のときに側溝から溢れる水を防ぐためなのか、とつぜん壁に大きなブルーシートがつってある。長年放置されているからか、繊維が毛羽立っていて、雨水の流れた跡が苔むしているのかカビているのか、青に、緑の線が幾重にも垂れていた。朽ちた家の脇に、立てかけておいてあるママチャリが、茶色く錆びていた。

東十条駅の商店街の脇でみたブルーシートも、ときどき思い出す。強烈な青が、風雨と日にさらされて白くなりかけていて、縄紐でてきとうにくくられていた。ブルーシートは誰からもみむきもされない。安価だから簡易的な家につかわれたり、花見の日の敷物にもなれば、よからぬ事件が起きたとき、家屋や人をくるむのにも使われる。どうみても違和感のある色なのに、景色のなかで、ないもののように扱われている。置いたことも忘れられたブルーシートは、自然より自然物のようにみえる。そういうふしぎな景色や美しさは、この世にいくらもある。あらゆるところにあって、誰にも気づかれぬまま、うまれては消える。

ときどき、惹かれた景色が、眠っているのか起きているのかあいまいなときに、目のうちに流れてくることがある。真夜中に電灯がついていたビニールハウスのつらなりが、真っ白い蚕がゆっくり桑の葉をはんでいるようにみえたとき、古い波板トタンに走った無数の雨の跡、渋谷の宮益坂の脇にあった吐瀉物の焼きそばをつつこうとゆっくり降りてくる鴉の紫色、深夜、首都高を両親が運転する車の後部座席に寝そべって、窓からみていたいくつもの電灯。

思い出すことなく思い出される記憶は、アンビエント、と呼ばれるなにかのことではないかなと思っている。起きると消えてしまうし、眠っても消えてしまう。

道を歩いていて、遠くに、柳がみえる。柳の下に誰かいるような気がする。揺れているのは枝ぶりなのか人の手なのか。判じたら怖いから、あいまいなままにして通り過ぎる。はっきりと白い顔とか、長い髪がみえはじめたら、もうアンビエントじゃない気がする。

国東半島のブルーシートは、みてから十年後、同じ坂道まで行ったことがある。すごくきれいなブルーシートだったと思い出しながら、わくわくして坂をのぼる。変わらず人の気配はなく、ママチャリもブルーシートも、なにひとつ変わらずあったのに、ただの景色にしかみえなかった。ブルーシートをみよう、と思っていくと、かつて流れていた時間は消えて、記憶をただなぞるだけになってしまう。アンビエントは、あるのにみえない。ふれられない。二度と同じかたちにならない。つねにいたるところに漂っているのに、意識すると、わからなくなってしまう。

2009年、はじめて小説を書いていたとき、瀬戸内海の島々にある銅製錬所 跡地や廃棄物処理場跡 をみた帰りに、直島に泊まった。翌日、港のそばに大竹伸朗のつくった銭湯に浸かってから家に帰った。あの浴場は、人と共有ができる、めずらしい、アンビエント空間だと思う。

開店したばかりなのに、私が入ったとき、女風呂にはひとのすがたがなかった。真っ白いタイルが広がっていて、壁の上に、大きな象がみえる。ぎらぎらした日が盛んにさしていた。石鹸をあわだてて体を洗っているとき、湯に紛れて、ひそかに音楽も流れていることに気がついた。アストラッドジルベルトが歌う「白い波」。はっきりとはきこえないけれどたしかにきこえていて、幽霊のような声だった。誰もいないのに、湯があふれる音、桶を床に置く音もきこえてくる。ぼーっと、お風呂に浸かって、天井や浴槽の底に浮世絵のきれいな女の顔が沈んでいるのをみていると、フリップ&イーノの「EVENING STAR」がかかりはじめる。音楽を毛穴のひとつひとつできいているような気持ちになっていた。ロバートフリップのギターは、かけているとあたりの重力がなくなっていくようで、生えていた草木も、張り付いていたタイルも、地面から剥がれてばらばらに空にむかって吸い込まれていくような気持ちになった。重力が逆さまになって、体がすーっと浮き上がるというより、空にむかってさかさまに落ちていきそうだと、そのとき思っていた。

小説のことばは、本来、アンビエントの対極にあると思う。消えないように、起きたことを忘れないように、ひとはことばを発明した。文字を書いて紙にとどめることで、ひとの命の短さでは、つぎに伝えられないことを、これから生きるひとに残そうとする。でも、文字は、しっかりとどめているようにふるまっているだけで、読むそばからどこかに逃げていってしまうのではないかと思いながら書いたのが「流跡」という小説だった。

小説を書くとき、ことばを声に出して、読みあげながら、書いている。ちいさく声に出しながら、ことばが持っている響きをたしかめているとき、武満徹の「言葉は、想像の貯水池であり、言葉は、発音されることで、たえず新鮮な水をわれわれに供給する」という一文を思い出す。文字が持っているかたちにもまた、独自の、音のすがたがあると思っている。何度も読むうちに、ことばの意味がほどけて音になったり、音がまた意味にまとまったりする。発話したときの、音のきこえかたと、文字でみているときの音の感触、それが、ぴたっとくっつく瞬間がある。そのおとずれを待ちながら、書いている。

朝吹 真理子
あさぶき まりこ
2009年「流跡」でデビュー。2010年、同作で第20回Bunkamuraドゥマゴ文学賞を最年少受賞。2011年「きことわ」で第144回芥川賞を受賞。近刊に小説『TIMELESS』(2018)、エッセイ集『だいちょうことばめぐり』(2021)など。2012~14年、国東半島アートプロジェクトにて発表された飴屋法水(演出・美術)による演劇「いりくちでくち」を共同制作。2021~22年「Reborn-Art Festival 2021-22」でも画家弓指寛治と展示作品「スウィミング・タウン」を共同制作。